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2024/09/23

第九回 「チケット一枚が人生を変えた」<桂 弥壱インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第九回は桂 弥壱さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「チケット一枚が人生を変えた」
(桂 弥壱のインタビュー)

 

芸名 桂 弥壱(かつら やいち)
本名 渡邉 皓太郎(わたなべ こうたろう)
生年月日 1991年(平成3年)2月4日
出身地 大阪府
入門年月日 2017(平成29年)11月27日
公式サイト https://www.yaichi-katsura.com/
公式X https://x.com/81_katsura

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大学を1年で中退

中学生の時からお笑い芸人になりたかった。学業やサッカーなど何をしても普通というか、目立たない子だった。
ただ皆の前で漫才や先生のモノマネを披露するのは好きで、周囲も喜んでくれる。
自分の居場所がそこにあった。中学時代の成績は良くなかったが、地元の進学校である川西緑台高校に入学。当時は定員割れしていてすべり込んだ。

引き続き高校の文化祭でも漫才やコントを披露していた。
高3の時にNSC(吉本総合芸能学院)に入ることを親に話すと無茶苦茶反対された。
そこで一旦は断念して、大学でお金をためてNSCに行けばよいと自分に言い聞かせた。
何とか留年しないように勉強していくと大学に行けるレベルになってきた。

甲南大学経営学部に入学したが、大学には自分の居場所が見つからなかった。サークルに入って友達もできたが、皆でワイワイ騒ぐ雰囲気になじめなかった。
本格的にお笑いをやりたい気持ちがあったからだ。
漫才にしか関心がなかったので落語研究会は頭になかった。授業にも興味がなく、欠席ばかりで奨学金を打ち切られた。それを機に大学を中退した。

「あんた落語会に行けへん?」

初めは焼き鳥屋でバイトを始めた。朝から晩まで働いて毎夜友人と飲む生活だった。その後、2年してダイハツ池田工場で期間工(契約社員)として働き始めた。

私は自動車の左側のドアが担当。ドアの形になった鉄板が流れてきて、必要な部品を内蔵する。それをプレスして次の溶接ロボットにつなぐ。一日に300枚のドアを作っていた。

期間工でこの仕事を任される人は少なかったので、「正社員にならないか?」と会社から声をかけられた。
19歳から5年間フリーター生活。ここでキリをつけて正社員になると決めた。高校時代の友人は名前の知れた一流企業に入社している人も多かった。

期間工の有給休暇で久しぶりに実家に戻ると、母親が「あんた落語会に行けへん?」。
一緒に行く友人が病気になってチケットが1枚余っていた。
2014年11月の川西市のみつなかホールでの米朝一門会だった。

吉弥師匠の「風邪うどん」を聴いた。「こんなお笑いがあるんだ」と衝撃を受けた。
テレビのお笑いは誰かを傷つけることもある。また爆発力はあっても後には何も残らない。それとは対照的に、心の中に温かみが生れて、演者さんの噺を聴くたびにそれが積み重なって大きくなっていく。
トリは、ざこば師匠の「しじみ売り」。
読売テレビの「そこまで言って委員会」での怖いイメージがあったが、落語の登場人物がすごく可愛くて愛おしい。
この日の米朝一門会のメンバーと演目はすべて覚えている。

手紙で入門志願

落語会が終わった後に、母親と別れてうどんを食べにいった。バイトをしていた焼き鳥屋の常連さんがいて、やはり落語を聴いて来ていた。
「俺ら、思うつぼのエエ客やな」と笑いあった。
うどんを食べながら、吉弥師匠もざこば師匠もきっと愛がある人に違いない。
眠っていたお笑いをやる意欲が一気に盛り上がってきた。

「スイマセン。やりたいことが見つかったので」と正社員の話を断って会社を辞めた。
今までふらふらしてきたが、ここで区切りをつけないと前に進めないと思った。

それからは、吉弥師匠を始め、色々な落語家の噺を聴いた。
いきなりの弟子入り志願は突拍子もないという気持ちがあった。
それに私は石橋をたたいても渡らない慎重な面もある。

1年間、週に1、2回は必ず寄席に通った。吉弥師匠の住まいにもアクセスが良くて、各地に行くのに便利な十三に住んだ。
自分はやはり落語をやりたいと確信できたので、吉弥師匠に弟子入りをお願いする手紙を書いた。
手紙にしたのは、師匠は忙しいと思ったからだ。

「今は、弥っこという弟子がいるから二人はとれない」と断られた。
2回目に断られた2週間後に、弥っこ兄さんがツイッターを始めたので、年季があけたことが分かった。
「ここだ!」と3回目のお願いに行った。

見習い弟子から始まる

2017年5月27日、神戸新開地の落語会で、とりあえず袖で観ときなさいと吉弥師匠に言われた。終了後、「次はどこに行かしていただいたらよいでしょうか?」と師匠に聞くと「情報は一杯取れるんだから、そんなことは自分で調べろ」と怒られた。

後から考えると、ここから見習い期間が始まった。師匠の着物を畳んだり、浴衣をもらって舞台番をしたりした。3ヵ月ほどして、東の旅 発端の稽古をつけてもらった。

2017年11月27日の落語会で、「お前に弥壱という名前をやるから」。翌年1月の初舞台の話もいただいた。
「これで落語家になれる」と感慨深かった。26歳になっていた。
親には、入門前に落語家になる決意やその経緯を説明したらすんなり納得してくれた。

師匠についていない時は動楽亭に通って日報を書いてメールで報告をした。
誰の出囃子を叩いた、弟子として何をしたか、何を感じたのか、特に怒られたことは外せない。
師匠が相手に謝らなければならないからだ。

動楽亭は、1日から10日までは米朝一門だけが出演する。一門の師匠や先輩からいろいろ教えてもらえた。
鳴り物の練習もできる。学ぶべきことは山のようにあったが、吸収できるのが楽しくて楽しくて仕方がなかった。

夜はうどん店でバイトをしていたが、急に師匠からの用事が入った時も、店主はいつも「分かった。大丈夫。俺らで回すから」と快くカバーしてくれた。
彼は夢を持つ若い人を応援していて、店でも熱い人が働いていた。

若い人に届く落語を

あと1年で修業期間が明けるタイミングでコロナ禍になった。動楽亭にも行けず、師匠から稽古をつけてもらうこともできなかった。ただうどん店は配達の仕事で非常に忙しくなったので経済的には助かった。

コロナ禍の期間も毎日師匠に日報を送っていた。
師匠からは、「単にお金を稼ぐためだけにバイトをするな」と釘を刺された。「時うどん」の稽古をつけるから、うどんを食べる時の目線や仕草も学べ。
「落語も最後は人だから」、お客さんから可愛がられる従業員になれと返信があった。

ひとり立ちして4年目になる。私もそうだったが、特に若い人は未来に不安を持ち、鬱屈した気持ちを抱えている人は多い。
彼らの中には私が落語に出会えた経緯や、私が語る落語の話に興味を持ってくれる人もいる。
ささやかでも落語を通じて、彼らが将来のことを考える端緒にもなれば、これほど嬉しいことはない。

10年後は自分なりの笑いを作ってみたい。
お笑いにもいろいろな手法があるが、あくまでも落語を柱にして、私が米朝一門会で感動したように気持ちの動く笑いを届けたい。
そのためにも今は古典落語の力量を一歩一歩積み上げていくつもりである。
(7/4 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

喜楽館の昼席に登場した桂弥壱さんが、「自動車の左ドアを毎日毎日300枚作っていて、飽きたので会社の人に『他の部署に変えてほしい』と頼むと、翌日から右のドアの担当になりました」というマクラを聞いて、これは面白い物語があるはずだと直感して喜楽館のマネージャーと一緒にインタビューのお願いをしました。
弥壱さんは、初め「話を盛らないと持たないんじゃないですか?」と切り出したが、途中から語りに勢いがついて、結局、興味ある話をいくつか割愛しました。
弥壱さんに、「チケットが余っていなかったら落語家になっていたでしょうか?」と尋ねると、「なっていないでしょう」と即答でした。
天の配剤としか言いようのない偶然が人を導くこともある。ただ、何もないのではなくて、お笑いが好きだという子どもの頃からの思いが導火線になっています。
話を聞いていて、「弥壱物語」を語れば、若者だけでなく気持ちの動く人は多いのではないかと思いました。まずは古典落語での着実な成長を「期待してまっせ~!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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