神戸新開地・喜楽館

  • 神戸新開地・喜楽館twitter
  • 神戸新開地・喜楽館facebook
  • 神戸新開地・喜楽館Instagram
電話をかける
スマートフォン用メニューを表示する
トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第八回 「漫才→漫談から落語家に転身」<月亭希遊インタビュー>

2024/09/05

第八回 「漫才→漫談から落語家に転身」<月亭希遊インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第八回は月亭希遊さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

—————————————————————-

「漫才→漫談から落語家に転身」(月亭希遊のインタビュー)

 

芸名 月亭希遊(つきてい きゆう)
本名 西澤 裕也(にしざわ ゆうや)
生年月日 1988年 5月26日
出身地 滋賀県
入門年月日 2017年(平成29年)11月26日 師匠「月亭遊方」

—————————————————————-

NSCで漫才をはじめる

家族全員が野球好きだったので、自然と小学校から高校まで野球を続けた。一方で、中学生の頃から、とにかくお笑い芸人になりたかった。文化祭では漫才をやったり、寸劇を披露したりして、授業中も友達に笑ってもらえることが何より嬉しい、いちびりな生徒だった。

彦根工業高校を卒業して大手物流システムの工場で働いた。送られてくる物品の仕分け作業が主な仕事でフォークリフトの免許も取った。ただ私はNSC(吉本総合芸能学院)の授業料と、大阪で一人暮らしを始める資金として100万円貯めることを目標に働いた。

翌年には、幼馴染の同級生とコンビを組んでNSCに入った。会社を辞めることに何の未練もなかった。彼と同じマンションに住んで、私がネタを書いて二人でネタ合わせ。授業で放送作家の先生からダメ出しを受けて、また直すという作業の繰り返し。大阪NSCには同期が800人いたが、初めは順調で学内でも注目された。1年後の20歳の時に、ワッハ上方の「アマチュア演芸コンテスト」で審査員特別賞をもらった。これで勢いに乗れるかと思ったが、相方が漫才を続けるのがシンドクなってコンビは解散になった。

漫才→漫談に転向

それからは新たな相方とコンビを組んではうまくいかず、2,3か月して解散。それを何度か繰り返した。最終的にはピン芸人でやっていくことにした。小さい頃からの興味の対象は漫才やコントだったので、一人ではどうすればよいのか分からない感じがあった。目標とする漫談の芸人もいなかった。しかし漫才に戻ろうにも良き相方が見つからない。

25歳になっても、自分なりの漫談の形が見つけられなかった。ネタに自信がない→お客さんにウケない→頭でネタを修正する→またウケない、という負のスパイラルに陥った。おまけに漫才師、コント師と同じ舞台に出ると、漫談はすごく地味に映る。R-1は一回戦で敗退。初めの漫才の相方に「もう一度やらないか」と何度か呼びかけたが実らなかった。

親を説得してNSCに入り、お笑い芸人しか考えてこなかったが、それがうまくいかない。何とかしたいが打つ手は見つからない。居酒屋でのアルバイトにも身が入らなかった。

それから2年ほどして、漫談に少し手応えが出始めた。周囲にも評価してくれる人も増えてきた。しかし、それでも頭打ち状態は変わらなかった。

落語に光明を見る

その頃、ライブの終わりに放送作家から「お前は落語の方が向いているんじゃないか」と指摘を受けた。藁にもすがる気持ちで、図書館でCDを借りて、ざこば師匠の「肝つぶし」を聴く。魂がのっていて心に響いてきた。ひょとしたら落語は面白いんじゃないか。それから毎日落語を聴き始めた。上方落語だけでなく、志ん朝師匠や志の輔師匠にも手を広げた。

漫談のネタで迷っていたが、古典落語にはストーリーがあって笑いも入っている。新作落語に挑戦できるチャンスもある。漫才では理想の相方を見つけられなかったが、落語は一人でやれる。野球の練習でもそうだったが、一人でコツコツやるのは昔から得意だった。

古典落語の台本がネットにアップされているので、一日中読んでいると「おもろいなぁ」と自分がイキイキしてくる。漫談は一旦横に置いて、ひたすら落語に浸った。

10年ほど前のNSC在学中に、落語家さん数人のフリートークを観た記憶が蘇ってきた。白黒に思えた舞台の上で、一人だけパステルカラーの人がいた。現代的なトーク感覚に惹かれた。月亭遊方師匠だった。

遊方師匠に弟子入り

丁度その頃に、遊方師匠は「噺力(ハナシノチカラ)」と銘打って、動楽亭で古典落語の大ネタをはじめた。その第1回にも足を運んだ。まず師匠の落語はマクラが楽しい、新作落語も面白くて、古典落語にも師匠の感性が入っている。型にはまらない魅力があった。

奈良の落語会で出待ちをして、弟子入りをお願いした。師匠は私の話を聞いて「まだ落語を聴き始めて間もないので、もっといろんな落語家を見てみなさい」と言われた。それから週二回は繁昌亭や落語会などに通った。

半年後、やはり動楽亭で「噺力」の会場に入ろうとしたら、受付のスタッフさんから「遊方師匠からお手紙を預かっています」。嬉しくてトイレで開けてみると、「今度一度、二人でお話しましょう」。後日、師匠の自宅近くのファミレスでお会いした。

師匠は「笑いの感覚が合わない人は弟子にはとらない」ということで、その場で漫談を披露した。「見習いからついてみるか」と反応があった。

それから1か月ほどして、落語会の打ち上げの後に、JR天満駅のホームで「弟子としてとりますよ」と言ってもらった。暗闇の中からはっきりと明かりが見え始めた。2017年、29歳で落語家になった。

振り返ってみれば、お笑い芸人として売れようとしてるときは方向性も見失っていて何をしていいか分からないこともあった。しかし他の仕事をやろうという気持ちにはなれなかった。部屋にこもって一人で落語の台本を読んでるときは苦しいことを忘れて、いい意味で現実逃避できた。

これからの自分

弟子の期間は、師匠の家の家事をすることは一切なく、通いでついていた。入門から1か月後には初舞台に立たせてもらった。人前で落語を披露できると精神状態も良くなる。居酒屋のバイトでも、暇を見つけてはネタの稽古をしていた。

2年弱を経て独り立ちする時に、遊方師匠は「がんばれよ、精進せえよ」ではなくて、「お互い頑張りましょう」と言ってくれた。何とも言えず嬉しかった。年季が明ければライバルだというニュアンスもあったからだ。遊方師匠も八方大師匠からそう言われたそうだ。

意欲高くスタートしようとしたところ、コロナ禍に遭遇。落語会のチラシを作って会場も押さえた仕事も含めてすべてなくなった。師匠方のところに出稽古にも行けなかった。

そこでリモートでの配信を始めた。三題噺(お客様から頂いた3つのお題を組み合わせて即興で落語を作り披露すること)を1000日連続で行った。今の新作落語の持ちネタの7割はそこから生れている。今後も落語の面白さを若い人に向けても発信を続けたい。

今は10年続けた居酒屋のバイトも辞めて落語の仕事だけで生活している。経済面もありがたいが、何より自分の居場所を発見することができて心の扉が開いた。今まで目を向ける余裕のなかった映画や小説にも興味・関心がわいてきて、落語に取り込むことができるのが一番嬉しい。

将来の夢としては、独演会でホールを満席にして全国を廻れる落語家になりたい。そのために古典落語、新作落語にも取り組み、独自のファンタジーな噺も磨いていくつもりだ。お客さんに私の世界観のファンになってもらいたいと考えている。

(6/27 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

取材では、合間合間に私が話の腰を折って質問するわけですが、話の筋道が全くぶれず、一つの希遊物語を聞いているようでした。特に落語によって「心の扉が開いた」という言葉が印象的でした。

一口にお笑い好きだと言っても、他人と絡む漫才やコント、ピンで行う漫談、落語、諸芸などそれぞれに各人の向き不向きがありそうです。一般でも、サラリーマン向きか、個人事業主向きか。会社員でも営業が得意か、組織管理が得意かなど人それぞれでしょう。

サラリーマンや定年後の取材で、「いい顔」をしている人の働き方や過ごし方は千差万別なのですが、一つだけ共通点があります。自分の人柄や得意分野を深く知って、自らに合ったことをやっているのです。

しかし誰もが本来の居場所を簡単に見つけることはできません。少しでも「関心がある、面白い」と思ったことはとにかくやってみる。やってみて自分に合わないとわかることも大きな成果です。三日坊主でも3日分は成長できます。

希遊さんも真摯に新たなことに立ち向かう姿勢があったからこそ、放送作家の「落語の方が向いているんじゃないか」という言葉がターニングポイントになったのでしょう。

独自の世界観を磨きに磨いて、若い人も含めて満席の会場で独演会を行う希遊さんの姿を見たいと思いました。「期待してまっせ~!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

交通案内

アクセスマップ

周辺駐車場マップ

トップへ戻る