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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第六回は露の紫さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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「遅咲きの紫の華」(露の紫のインタビュー)
芸名 | 露の紫(つゆのむらさき) |
本名 | 宮口 ゆかり(みやぐち ゆかり) |
生年月日 | 1974年(昭和49) 4月6日 |
出身地 | 愛媛県 |
入門年月日 | 2008年10月23日 師匠「露の都」 |
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愛媛県今治市で生まれて、小学生の時から通算で11年間バスケットボールに打ち込みました。姫路学院女子短大に進み、バスケットボールを引退する少し前から、喋る仕事がしたくなりました。家族や周囲の友人から話が面白いと言われていたからかもしれません。
1994年に神戸ポートピアホテルに就職。入社した2年目の春から1年間、大阪にあるアナウンサー学校に通い始める。本格的なアナウンサーというよりも、テレビのリポーターやラジオでのアシスタントをイメージしていました。
翌年の春に、その学校を運営している事務所(プロダクション)のオーディションに受かったので、ホテルを退職して神戸から大阪に引っ越し。すぐに仕事があると甘く考えていました。
初めの頃のレッスンで、先生から「ミヤコ蝶々は就寝時にいつも落語を聴いていた」という話があって、私も耳を傾けてみましたが全然面白くありませんでした。単に話術を学ぼうという気持ちだったからでしょう。
しばらくしてテレビ和歌山のリポーターが決まって、サンテレビ、琵琶湖放送、ケーブルテレビの出演やレギュラーの仕事が入ってきました。またイベントの司会も結構ありました。初めはアルバイトを兼ねた生活でしたが、5年ほどしておしゃべりの仕事だけでなんとか暮らせるようになりました。しかし番組も終了したりして、減る仕事も少なくありません。親もこの仕事にいい顔はしていなかったので、本当にゼロになったら地元に帰ろうと思っていました。
当時の目標は、関西キー局のテレビ番組でレギュラーになって視聴者に顔を覚えてもらうことでした。AMラジオのアシスタントもやりたかった。ただ30代になると、若い人もどんどん出てくる。これからどうしようかと悩み始めました。それまでは勢いだけでやってきた感じです。
原稿をきちんと読むタイプでもなく、単にリポートするよりもフリートークの方が自分に向いている気がしていました。実際にも、六甲山の源水をたどるといった体当たりレポートも多かったのです。
お笑い好きでもあったので、M-1やR-1にもエントリーしましたが、いずれも一回戦で敗退。どこかに引っかからないかと考えて、お芝居も小劇場でちょい役をやりました。また仲間同士でプロダクションを立ち上げ、プレイヤーと裏方との両方の仕事をやっていたこともあります。
いずれも中途半端になりながら、生き残りたい生き残りたいと迷っていた時に、2008年4月「繁昌亭落語家入門講座」に3期生として参加しました。当初は、落語家になるつもりはなくて、話術の上達やしゃべりの幅を広げたいくらいの気持ちでした。
30人が4人の落語家の師匠方から半年で古典落語を2ネタ教えてもらいます。グループに分かれて、噺のパートパートを学んでいくので、他人の力量や自分のレベルも把握できませんでした。プロの落語家を養成する講座ではなかったと思います。
NHK連続テレビ小説『ちりとてちん』をきっかけに開催された、2008年の第一回『「ちりとてちん」杯 ふくい女性落語大会』に腕試しで出場しました。せっかく落語を学んだので忘れないうちにやってみようと思ったのです。入門講座で学んだ「兵庫船」と「道具屋」で臨みました。
この大会で優勝できたことで、落語家でやっていきたい気持ちがふつふつと湧いてきました。「しゃべりたい、お笑いもやりたい、芝居もやりたい。落語には全部入ってるやん」。気づくのが遅すぎる!(笑)
「ちりとてちん」杯の審査員は、露の都師匠でした。学生から入門する人とは違って、何が何でも「弟子にしてください!」というよりも、「いま私はこういう状況なんですけれども、落語家になれますか?」と相談にのっていただいた感じでした。都師匠は女性落語家のパイオニアなので分かってくれるだろうという甘えがあったのかもしれません。
師匠が弟子として受け入れてくれたことに感謝しています。入門したのは2008年10月、34歳の時でした。「繁昌亭落語家入門講座」の卒業生から生まれたプロの噺家第一号になりました。
一緒に修行していた眞(まこと)姉さんは、私より一回り下でした。でも年齢的なことはまったく気になりませんでした。都師匠は今までのMCの仕事を続けても良いと言ってくれましたが、レギュラーも整理してすべて金曜日に仕事をまとめました。後の日は弟子修行に集中することにしました。
2年半の弟子生活でしたが、師匠の自宅の家事では、エアコンの掃除をしたら動かなくなる、アイロンで絨毯を焦がすなど、色々やらかしました。師匠にはご迷惑もかけたのですが、落語家に転身するための貴重な期間になりました。スタートは遅かったのですが、落語は自分を表現できるホームグラウンドだと確信できました。
34歳から落語家になって15年。もし20歳からやっていたら途中で辞めていたかもしれません。落語家入門講座、女性落語大会、露の都師匠、各々の出会いがあって今の私があります。MCが抜けないと言われることもありましたが、リポーター、司会、お笑い、芝居を廻ってきたからこそ、活きることもあるような気がするのです。
落語に登場する、男、女、子ども、旦さん、芸者、侍、ご隠居をイキイキと違和感なく演じて、お客さんに楽しく聴いていただきたい。
そのためには、もっとボキャブラリーを増やし、表現の仕方も工夫するなど、まだまだ学ぶべきこと、研鑽することが満載です。また実際には頭で考えるだけでなく、高座でのお客さんの反応を参考にしながら自らコツコツと添削していくしかありません。
将来、誰の落語を聴こうかとなった時に、露の紫が演じる登場人物に会いたいと思ってもらえる落語家、また演じるのに「男も女もないなぁ」と感じてもらえる落語家を目指します。
(6/20 神戸新開地の喜楽館にて)
*「取材を終えて」(楠木新)
当日の喜楽館では、露の紫さんが、名前と同じ紫の着物で登場すると、舞台がぱっと華やかになりました。高座での流ちょうなしゃべりとは対照的に、「どういうたらええねんやろ」と立ち止まりながら丁寧に話してくれました。
紫さんの話に耳を傾けていると、「Connecting the dots(点と点をつなぐ)」という言葉を想い起こしました。スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式のスピーチで、「将来を予想して、点(知識や経験など)と点をつなぐことはできない。後の人生で振り返った時にしか、つなげることはできない」と述べて、彼が大学でカリグラフ(文字芸術)に興味を持ったことがきっかけで、後に開発するマッキントッシュが多数のフォントを持つようになったエピソードを語りました。
私は中高年以降に転身した人の話を聞いていて、子どもの頃に得意だったことや、過去の仕事で培った技能や経験をもう一度取り込んでいる人が多いと何度も実感してきました。
一見すれば紫さんの遠回りとも思える経験も、彼女の演じる落語の登場人物に魅力を吹き込むことにつながるのではないでしょうか。ジョブズはこうも言っています。「今やっていることが、将来、自身の役に立つ(点と点がつながる)と信じて取り組みなさい」と。
紫さん、「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。